船上の人
もうかれこれ4回ぐらい訪ねただろうか。
2000年のまだ寒い2月に、初めてお会いしたご老人である。
1999年の6月に北海道の小樽港を出発して、その年の10月に五ヶ所湾にたどり着い
たという。
日本海べりをひたすら南下し、下関をまわって瀬戸内海をたどり、太平洋に出たのだ。
ずーと、ひとりぽっちの航海だったらしい。

札幌がお住まい。
お孫さんもおられる二世帯同居なので、留守を預かる奥
さんは心配しなくていいのだとか。
「寝泊まりはヨットですが、食事や風呂は寄港地で歩いて
捜しました、いろんな経験をしましたが何とかなるもんで
すなあ〜」、と記憶をたどられる。

朝はやく出港し、午後3時には寄港して、気に入ればしばら
く滞在する。その繰り返しだったとか。
日本海沿いの港はどこもガラ空きで閑散としているのに、
造りだけは豪華だった、と日本の行政が腑に落ちない様子。
言葉を選んで話されるから誇張がない。

かつては北海道を離れ、三浦半島や湘南などでヨットの経験
もされたのだという。それも、学生時代にさかのぼるというか
ら想像できないほど、昔々の話。
ヨットと老人

ヨットハーバーではここが一番すばらしいと力がこもる。
いろんな港、景色、海岸線を見てきたというから確かだ。
「ここは自然が一番残っています、そしてこれ以上のところ
は望めない」と。

「私は75才。このヨットハーバーを最終港と決めました」
老人は五ヶ所湾に住み続けて、もうかれこれ一年も経つ。
もちろんヨットの船上生活だ。
心配している家族には、便利な携帯電話でカタが済む。

ところでこのヨットハーバーには、同じような船上生活を
楽しんでいる老人が、他に2〜3名もいるのだ。
オープンハウスには、朝のコーヒーを飲みに三々五々集ま
ってくる。それでお互いの安否を毎日確かめるのだという。

彼等の朝食用トーストパンにバターを塗りながら、ニヤリと
笑った支配人が教えてくれた。
狭い船内には、生活用品が一通り揃っています。
温かい紅茶をいただきました。
ヨットが終の棲家、五ヶ所湾がお気に入りというご老人た
ちである。
海の男らしく、安気な家庭生活は馴染まないのだろう。
手製の生簀にはマダイが泳いでいる。ときどき気が向け
ば刺身にして食うのだ。

札幌の老人はそれに刺激されたのか、ここで覚えた釣り
に熱くなっている。
暖かくなったら、借りた船外機付きボートで釣りに行くん
だとワクワクしている。
桟橋にはすでに、水中に糸を垂らした竿が2本準備され
ている。餌はつけられていないのだが。

もうすっかり老人は、五ヶ所湾の風に成りきっていた。