木に登る
たぬきくん


初日にタヌキが現れるのは、夜もうんと深まった頃合いだろうか。
次の日に現れるのは少し早くなり、3日めにはグンと早くなって日が西の山
に隠れる頃になる。
いつも2,3日の滞在だが、まれに1週間近くもいると、しまいには日も落ちぬ
前から姿をみせてくれる。

そうしたもんだと思っていたんだが、あれは春たけなわの頃だったろうか。
昼過ぎの陽気が一番強いころ、草むらにひょっこり現れた。
それはまるでボケーとしていて、気が抜けたみたいだった。
とっさに、「ヤア−」と声をかけて気持ちを落ち着かせたのだが、しばらくは事の
状況がつかめなく面食らったままだった。

なんでこんな昼間に?…やつも春ボケか。

動物とてやはり生身の体、春の陽気に浮かれて飛び出したか、と勘ぐってみた
が、なにせこちらに話しかけているみたいで、警戒心を解いてくれた野生動物が、
じき目の前にいるのだ。
予期せぬ昼間に、しかも丁寧な挨拶なもので、驚くよりも胸が感激で一杯だ。

押さえがたい感情が勝手に、「タロウ」 と口から出てしまった。
こちらも挨拶せねばと急いだもので、相手の呼び名を深く考える余裕がない。
夜と違い昼は、野生の気配もどことなく薄く、風体からしてのんきさそのままである。
なるほど、日本の里山を代表する動物に一番似合っているなあと、素直にうなずい
てしまう。
間違っても、「ジュリ−」とか「タクヤ」とかは軽率で奥行きがなさそうで、まるで似合
わないだろうな。

「太郎」と呼びかけると、とりあえずこちらを振り向くが、あまりダラ安に呼びかけて
ほしくないらしい。
横向きに腰をおろし、たまにこっちに振り向いてくれるが、次第に投げやりになって
きて迷惑そうだ。
そのうち、何度呼んでも無視するようになって、暫く、くつろいでお帰りになった。

でもこの先、太郎と呼ばれて飛んでくる仲になるなんて……想像できただろうか。